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ステートメント及び作品解説 「偶然性と作品について。」

多人数でプレイするゲームもあれば、1人でプレイするものもある。すぐさま決着するものもあれ ば、いつまでも続くものもある。いずれにせよ、定まっていない場所から出発し、勝ち、負け、引 き分け、またはそのいずれにも当てはまらない結果へと導かれる。 遊びは偶然との戯れだ。
私は展示を介して偶然と戯れることを望んだ。 私は観客に、観るより1歩踏み込むことを求めた。遊びに加わるという1歩である。 そうしてルービックキューブを用いた作品を作り、展示した。

無色の緑の観念は獰猛に眠る 2017年)
もとの玩具としての構造はそのままに、色面の代わりとして小説から引用した文章へと置き換えた のだ。観客はそれを眺めるだけではなく壊すことも出来る。整列していれば読める文章が、遊ぶこ とで崩されていく。 ルービックキューブは、色の合わせ方を知らなくとも誰でも1面くらいなら色を合わせることが 出来るものだ。偶然の助けを借りて。 それと同じように、一度は崩されバラバラになった単語は、時折隣り合うべき単語同士を偶然に も再会するのである。遊びは偶然を無視できない。 時に偶然に助けられ、時に欺かれる。誰しも遊ぶ時には偶然とも遊んでいる。
人が遊び始めたのはいつからだろう。偶然は常に寄り添っていた古い友だ。 私たちは時間をしばしば遊びに費やして来た。
暇があれば遊びを思い付くものだ。 遊びは何を使ってでも生み出せる。○×ゲームや棒消しゲームのように、図が仕組みを作り出せ ば、その仕組みの遊び場で楽しむことが出来る。だがそれらはその単純さゆえに単調である。例 えば棒消しゲームには勝ち方がある。そのことを知っていなくとも、対戦の途中で勝ち負けが分 かってしまう。ここでは偶然が勝敗を分けるというのは幻想で、勝敗は予め決まっていたことが 分かる。これは偶然のように見えた必然だと。ただし、これはあくまで対戦の話である。
遊びは何を使ってでも生み出せるのだから。来客にお菓子を振る舞うことを遊びに変えることも 出来る。私は展覧会に訪れた観客にチョコレートを配った。 正確には作品がチョコレートを配った。 簡単な仕組みの装置だ。20個のチョコレートが並べられている。作品の正面にある3つのス イッチには1~3の番号が振られ、その番号が手元に落下させるチョコレートの個数を表している。

キャンディ・レーン 2018年)
スイッチを押せばチョコレートが落ちる。限りある20個から、任意の個数を順番に持ち去るこの仕組みは、棒消しゲームの仕組みを真似たものだ。対戦が仕組みの遊び場を狭くするのであれば、それを取り除けば良い。あのルービックキューブ が誰でも遊ぶことが出来たように、誰でもこの遊びに加わって良い。 展覧会には誰が訪れるのか分からない。むしろその方が良い。 私は誰かの作品を観るとき、それが思いもよらぬ出逢いであることを願う。私の作品もまた、誰かにとってそうであることを切望する。
展示を介し、作品とどこかの誰かと出逢う偶然と戯れること。それは向かい合う対戦者と遊ぶ ゲームとはまるで異なるものとなる。 単調な予定調和から開放し、不確かさと戯れる。訪れた観客は気まぐれにこの遊びに参加し、好 きにチョコレートを持ってゆく。 持ち去られれば減っていく。そこでむやみに補充したりはしない。観客が作品と戯れるたび、やがて最後には無くなるという結果が近付くままにする。
それらが最後には無くなるという必然とともに、最後の1つが誰かの手に渡る。その出逢いの瞬間に至るまでに20個のチョコレートを分け合ったそれまでの観客による気まぐれの棒 消しゲームは、押し付けがましくもそれぞれがこのために不可欠な選択の連鎖だったこととなるのだ。
ルービックキューブは、あらゆる観客と戯れた結果として、偶然にも正しく並んだ単語が文を作った。それは単語同士の出逢いであるとともに、連鎖した偶然による可能性の実現である。それは同時に行為の連鎖、人の連鎖でもある。
偶然は不可能の側に偏っても、それ自体が不可能であるとは誰も決めつけられない。 些細なこと、それこそ気まぐれに押してみただけのスイッチ、何気ない手遊びのパズルが、他愛もない些細な行為の痕をそこに残す。微かな痕に塗れ、その全ての痕には気配が宿っている。 偶然の連鎖に紐付いた誰かの気配がそこにある。