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ステートメント 「遊びの装置。」

縛られないこと。自らの振る舞い全てを自らが決めること。それらを自由とするならば、遊びは 反対に不自由である。
遊びはまずルールから始まる。 遊びはむしろ自由を縛るあらゆる規則を必要としている。
とは言え、ルールは遊びにおける振る舞い全てを規定し、縛るものではない。どのように遊ぶかはプレイヤーが決めることである。
ルールは遊びを合理的にするためのものではない。 遊びは用意された一定の秩序に従いながら、不確かさや非合理性と戯れるものだからだ。 むしろ秩序の上でなければ、不確かとの遊戯は生まれない。偶然はルールの余剰に生まれるもの である。
ルールは、その遊びがどのようにして始まり、どうすれば終わるかを規定する。 始まりと終わりの間。いつ誰によって何が生じるかを予め知る者はいない。偶然との戯れは謂わ ば、その不明瞭への賭けである。
ルールは道具によっても規定される。 玩具や遊具の仕組み。物質性や機構の特性もまたそれ自体が1つのルールである。 私たちは、その玩具で何が出来て何が出来ないか。遊びながら仕組みを解釈していく。 それは玩具を中心とした遊び場の行動半径。ルールの余剰を確かめるようなものである。

そして遊びは、それ自体が場でもある。遊びが遊びのための空間を作る。誰もが参加出来る遊び は、謂わば開かれた場である。その場に居合わせた他者と、あるいは時差を生じて場を共有した 他者と戯れる。
単純な機構と単純なルールを用いて、私は遊びの装置を作り展示する。 遊びの装置が場を生み、観客が自ら場に踏み込むことでゲームは開始する。 鑑賞の行為は自ずと観ることのみではなく、触れることや選択する行為も含むようになる。 これにおいては観客というよりも参加者であるとか、プレイヤーと呼ぶのが相応しいだろう。遊びはより能動的な参加である。
そもそも私たちは何のために遊ぶのか。ルールに則り、ゲームの終了条件を達成するため。それが遊びの目的だろうか。そうではない。遊びの目的は遊ぶことだ。結果よりもその過程のために 遊ぶ。開始されたゲームがプレイヤーによって終えられるまで過程。 遊びはその過程の中にあり、偶然もまた過程の中にある。規則の余剰で揺らぐ偶然の中へと賭ける。自らを賭け金として。
開かれた場に遊びに加わるプレイヤーはこのゲームが始まってから終わる間の偶然へ身を投じ、 時間を投じ、この装置を機能させるに不可欠なメカニズムの一部として組み込まれる。

本来、装置は目的を果たすためのものだ。より効率的に、合理的に。そしてその過程は目的の達 成ほど重要ではない。それが装置というものであり、有用ということである。 しかしながらこれは遊びのための装置。効率よりもむしろ過程を引き伸ばすように作られた1つ のルーブ・ゴールドバーグ・マシンである。達成することよりも、過程のために捧げられる装置 なのだ。